あなたがいつか、美しい言葉に復讐される前に

「やあハニー、元気にやってるかい?あれからnoteの更新がないようだけど、一体キミは何をやってるんだい?そんなにボーイフレンドのケツを追い回すのに忙しいのか、全く。大晦日に全裸で興奮しながら(注:お風呂で)記事を書いていたときのキミは最高にクールだったよ。でもあの記事にしても、開始10行くらいまではいい感じだったけどあとはゴミだね!スパムの方がまだマシだ!ハッハッハ」

 こんな風に、クリスチャン・ベールみたいな人が世界まる見え!の映像に出てくるアメリカ人男性の吹き替えの声で快活に私のことを罵ってくる。

 もちろん、脳内で。一応申し添えて置くと、ケツを追わないといけないボーイフレンドはいないし、クリスチャン・ベールに罵られることに快感を感じるようなドM精神は持ち合わせていない。そこはご心配?なく!

 でも正直、毎回毎回「久しぶりの更新!」と宣伝をするのもどうかという感じだし、この期間、Twitterで頻繁に長文を投稿する暇があるなら、noteを更新すればよかったはずだとも我ながら思う。それなのに、それができなかったのは、そしてnote自体をやめてしまおうと何度も考えたのは、バカなことに前回の記事で自分が書いた言葉にしこたまダメージを受けたからだ。

 前回の記事、「“サブカルクソ女”と呼ばれて」を読んでくださった方には分かると思うけれど、歯にものが挟まりまくった状態でメンヘラとサブカルについて書いた結果、なんともグタグダな出来上がりとなってしまった。このことについてもう一度考えて、文章を読み直して、結局あの1000文字が何を叫んでいるのかを自問自答したところ、

「私はメンヘラとサブカルを見下しているし、そういう人たちと一緒くたにされることに我慢ならない」というヘイトだった。

 もっと良心的な言い方もあるし、そういうつもりで書いたわけじゃなかったけれど、つまりはそういうことだった。記事を書いた翌日にはそのことに気づいた私は自己嫌悪でただでさえ血色の悪い顔を青ざめさせ、またしばらくnoteを書けなくなってしまった。

 言葉は、その人の言おうとしていること以上に、その人自身も気づいていない彼/彼女のありようをこちらに伝えることがある。今回のことでその恐ろしさをダイレクトに思い知った。

 ちょうどこの時期に読んで印象に残っているのが小説家金井美恵子の『目白雑録5 小さいもの、大きいこと』という本だ。この本は、2011年の震災が起きた後の朝日新聞の記事について、その時期に注目を集めた人物、政治家、作家、学者、ジャーナリスト詩人の言葉を取り上げて徹底的に批評している。一見、至極まともで読むと感動でうっとりするような言葉の持つ違和感と危険性が彼女によって次々と明らかになる。私も頭の悪いうっとり系の単純な読者のうちの一人なので、知性があるとこんなにも見える世界が違うのかとびっくりする。(これまた単純な読者なので)アメリカのインディアン史から小津安次郎の映画にいたるまでの幅広い知識、言葉の裏を読み取る精度の高さ、他人の言葉をあくまでも優雅にくさす態度。この人の手にかかったらどんな人物の発言もひとたまりもないでしょう……

 この本では(金井美恵子氏のいじわるさだけではなく)、言葉を読み言葉を書き、言葉と向き合うことを職業としている「小説家」の本領が発揮されている。安直に言葉を発する前に、自分がその言葉を発する背景について問いを投げかけること。言葉を扱う者がせめて自分の言葉に対して誠実でいるためにはそれしかないのかもしれない。

 今の状況を震災時のことと重ねる人も多く、すでに美談もちらほらと語られ始めていて、9年前と同じように誰かが何か耳ざわりのいいことを言い出すときも近いかもしれない。そんなときに一度立ち止まれたらいいと思う。あなたが美しい言葉に復讐される前に。

「うーん、やっぱり前半と後半の繋ぎ方がダメだね~でも前回よりは一応まとまりがあるし、キミのチャーミングさも伝わってくるしこの辺でよしとしようじゃないか!」と脳内クリスチャン・ベールがウインクしてくれているので、まあいいかな。