“サブカルクソ女”と呼ばれて

12月某日の夜、新宿三丁目駅へと向かう地下通路で私は、男に対して愛の告白を試みていた。

「どうしよう……好きかもしれない」

そう言ったそばから、言葉には照れと自嘲と投げやりな調子が同居しはじめていた。さっき飲んだビールによる酔いがなければ、こんなことは口走らなかったはずなのに。男の歩くペースはそれでも変わらない。今度こそ躊躇いの色を消して男の背中を刺すように告げる。

「本当に好きなんだと思います、菊地成孔が」


菊地成孔……? あーあのやたら小難しいことを書いたりしてる人ねえ」

男は私の菊地成孔への“愛の告白”をバッサリ斬り捨てて、苦笑い混じりに次の言葉を言った。

「君さ、いかにも“サブカルクソ女”って感じだな」

「苦笑い」というのは、好意的な表現で実際はだいぶ小馬鹿にしたニュアンスが加味された笑いだった。おい、クソはどっちだ?

 ここで何か言い返せたらよかったものの、私は優しく思慮深くマイペースなので、相手の言葉を無下にはせずに、自分が“サブカルクソ女”と呼ばれたことに対して「やはりそう来たか!」という気持ちと「違う!そうじゃない!」というもやもやに意識が行ってしまった。さらに情けないことに、こういう場面では頭と口が回るのが相当遅い。私のヘラヘラ笑いによってその会話は終わって、私は帰途に着いたものの、その後きのうまでこの不快感を抱えたままになる。

(ここで使った“男”というワードには性愛的なニュアンスはなくて、イニシャルを使って固有性を持たせる必要すらないもっと路傍の人という意図です。菊地成孔という人は、wikiによると、ジャズ・ミュージシャンで文筆家で作曲家らしい。最近もっとも目立った活動としてはFINAL SPANK HAPPYというユニットとか。ネットで検索して「げえっ!おっさんじゃん!趣味悪っ!」って思った人の感覚は正しい。私がこの人の何に“参っている”のかは、また別の機会にでも書けたらいいなと思うけどそれは性癖の暴露に等しいものがある。とにかくあと15年私が早く生まれていたら本当にどうなっていたか分からない、とだけは言っておく)

 男が「サブカル」というワードを使ったのには、その日に私が紀伊国屋書店で買った本の中に『90年代サブカルの呪い』(ロマン優光 コア新書)が入っていたのを彼が知っているからというのはあるかもしれない。(だって新宿本店にしか売ってなかったんだもん!) 

 でもその本を買ったのは、前作に二階堂奥歯についての記述があり、彼女がサブカル文化を語る著者のなかでどういう文脈に位置付けられているのか気になったからであって、サブカルそのものへの興味はあまりない。

 ただ、「サブカル」とは一体何なのかを知ったうえで、私自身サブカルに連なる位置にいるのか、私の趣味というのは私が選んだものではなく、実はそうしたサブカルのムーブと繋がっているのではないかという疑問を解決したい、という気持ちもあった。(ちなみに、『90年代サブカルの呪い』の第三章タイトルは狙ったように「メンヘラ女子」)

 私が「サブカルクソ女」と言われたことに対して「やはりそう来たか!」と思ったり、サブカル研究関連の本を買い漁り始めたりしたのは、

そもそも私が好きになるものは、音楽と本のほとんどがことごとく「メンヘラが好き」扱いされるものだと最近気づいたからだった。私が好きな椎名林檎は一昔前まで「メンヘラ御用達アーティスト」として名高い存在だったし、私の好きな島本理生も「主人公がやたらメンヘラ」、「メンヘラのバイブル」とTwitter上で書かれているのを見たし、よりによって私の好きになった菊地成孔子の第二期SPANK HAPPYも楽曲のほとんどで今だったら確実に「メンヘラ」と言われるようなテーマを扱っている。ジーザス!なんてこった!

音楽とか本とかもどちらかと言えば、メジャーなもの、ポピュラーなもの、今流行っているものよりも、知る人ぞ知るちょっとだけニッチなものを好きになりやすい。

これだけ否定しているのに、サブカルが好きそうなものを好み、メンヘラが好きそうなものを好む私は、果たして“サブカルクソ女”なのか?(皆様もお気づきの通り、この記事では便宜上の都合で“メンヘラ”と“サブカル”をほぼ同列に扱って話を進めちゃっています……すみません)

メンヘラ(女子)やサブカル(女子)がやたらと馬鹿にされる一因として、周囲と差別化し個性的であろうとすればするほど、むしろ典型的なタイプに向かっているから、すでにパターン化された病み方やとんがり方に乗っかっているのに本人ではそれが個性的だと思っているから、というのがあると思う。

(メンヘラ男子やサブカル男子に対する扱いについては私の把握不足でありますが)

私にも「人とは違った自分でありたい」という邪悪な思いが全くないと言ったら嘘になるし、それによって私の個性はむしろ類型化から逃れられないのではないか?すごい皮肉!どうしたらいいんだろ

というのがここ最近の悩みで、ぼんやりしているうちに昨日いきなり解決しました。お騒がせしました。では、解決偏スタート

「人と違う自分でありたい」なんてそんなこと思わなくても、私は人とは違う。それは「ペンギンとカモメが違う」のと同じくらい特別さとはほど遠い意味でだ。

誇らしく思う日より不本意だなと苦しむ日の方が多い。

また、仮に私が精神的に不調なときがあったとしても、それは私個人の問題であって、他人に自分の個性を訴えかけるための精神的不調ではないはずだ。他人からそういう風に思われるのは悔しい。

そして、私が自己表現のアイテムとして何かを好きになったことはない。少なくとも私について私はそう思いたい。

私の趣味嗜好が限りなくサブカル的な何かやメンヘラ的な何かに近かったとしても、そのようなキャラづけを狙ったものではない。

椎名林檎だって、キリンジだって、菊地成孔だって、大人の遊び心というか、エロスというか、とにかくアダルティな感じに憧れて好きなのだし、島本理生は、彼女の書く文章と異性が好きなのだし、よく考えて言語化すれば自分のなかではちゃんとした理由も歴史もある“好き”だった。私は昨日ようやくそのことに気づいて、自分の“好き”に少しだけ自信が持てるようになった。

(この話では私は不本意にカテゴライズされるのが嫌だと主張しているだけで、カテゴリーの中に自分を置きたいという人の生き方を否定するつもりは全くない)

この“もやもや”をこうして言語化するまでに時間がかかったのは、私が普段自分の好きなものについて語るのに心理的抵抗を感じているからだと思う。

「本当に好きだったら理由が浮かばないはずだ」とうそぶいて判断を停止した結果、私の“好き”は他者によってミーハー的なものとして処理され、私という人間は“サブカルクソ女”という侮蔑をはらんだ浅薄なカテゴリーにやすやすと括られてしまった。

 自分がその人やその作品のどこが好きなのか、なぜ好きなのかは言語化できておいた方がいい。実際に言う言わないは別として、それが自分の“好き”を守るための武器になる。

 そして、相手の趣味嗜好に対して安易なカテゴライズを行って、その人のことを理解したようにならないこと。それは相手の“好き”を貶める暴力にもなるから。何よりもカテゴライズという行為は、やられた側からしてみれば死ぬほど不快だしキモい。フーッすっきりした!

要は、自分のために好きなものは好きなだけ語っておいた方がいい!という話でした。よいお年を~!