メモリー・オブ・バーバリー

白いダッフルコート(アンゴラのファーつき)、黒いPコート、赤チェックのミニスカート、グレーチェックの膝丈スカート、茶色いスカート。

以上5点。どれも、BURBERRY BLUE LABEL、もしくはBLUE LABEL CRESTBRIDGE の服だ。使った金額の合計は、たぶん3万円を越えていて、よくもまあ、と自分でも呆れる。4ヶ月前には名前さえ知らなかったブランドの服をメルカリで大量購入するようになったのは、それが「千葉雄大」に教わったものだったからだ。

千葉雄大」というのは仮の名前で、当然、本名は別にある。

とりあえず、雰囲気や話す感じが似ていたから千葉雄大。「キャー恥ずかしい!」っていう惚気でこんなことを書いてるわけじゃなくて、むしろ自分の正気を疑うという点においては、非常に恥ずかしがっている。殺してくれ……みなさんは、「これを“彼”という代名詞を連発してエモい感じの文章にするのだけは、何としてでも避けたかったのだ……」という私の遺志をどうか汲み取ってください。

 さて、定期圏内だった中目黒に初めて降り立った私は、チバユー(仮)に初めましての挨拶をしたあとに、「オシャレ」としか言いようのないカフェ&バーに連れて行かれた。

「何のビールが好きなの?」という質問に「アサヒスーパードライかな」と答えたときから、すでに私の敗北は決まっていたのかもしれない。とりあえず呑めれば缶ビールの種類なんて気にしないけど、プレミアム・モルツはたしかに美味しいよなくらいの私に、チバユーは聞いたことのないような名前の外国のビールの話をし始め、ウイスキーだったら何が好きかと尋ねてきた。ウイスキーなんてほとんど呑まないし、その違いの分かるはずもない私は、「山崎、オイシイデスヨネ」と一回呑んだことのあるだけの高級酒の名前を出して、ひとまず無難に難を逃れた。それでも、私の緊張はこの時点でアウトバーンを走り始めた。

 化粧ポーチを家に忘れたせいで、ドラッグストアのテスターだけで急いで顔面を作り上げたことは、この際どうでもいい。それを気後れに思う余裕すら、このときの私にはなかった。ビールも手伝って、完全に使い物にならなくなった私は、頼んだ生ハムに添えられていた棒(プレッツェル?)ばっかり食べていたし、壁際にあった鹿の置物を「そういえば、合宿で行った奥多摩の旅館にもいたなあ」と、チバユーのご尊顔よりも多く見ていた。

 そして私の奇行とは真逆に、チバユーの話っぷりは神がかっていた。吉行淳之介の死後に妻と愛人たちが競って3冊の思い出本を出した話、etc…… とにかくよく喋るし、どの話もこっちの興味を惹くような面白いもので、チバユーが異常に頭が良くてちゃんと自分の趣味(スタイル)のある人なのが1時間話しただけでも分かった。しかし我々は一体、中目黒で何の話をしているのだ……?

 そんなチバユーが好きな本は、意外にも福永武彦の『草の花』だった。福永武彦というのは、池澤夏樹の父親で、小説家であると同時に、学習院大学の仏文科の教授を務めていた人だ。愛や孤独、死をテーマにした作品が多くて、『草の花』も勿論その系統でけっこう観念的な話だったりするけど、私が高校生のときに読んでいたら間違いなくハマっていたと思う。

 『草の花』の前半は、主人公の汐見が旧制高校時代、弓道部の後輩である藤木という男の子を愛するようになり、その気持ちを打ち明ける話だ。(実はそんな単純な話じゃなくて、実はこの話が、藤木との、そして彼の妹との愛に敗れた末に結核を患って死へと向かう汐見が書いた手記だというのがポイントではあるんだけど!)

文章が美しいのはもちろん、愛することは自分の孤独を賭けることで、たとえ愛されることがなくても、自分が藤木のことを愛してさえいればいいと考える汐見の思想に読んでいるうちに共鳴していき、自分が深いところまでたどり着いた気になる。反面、私は藤木の気持ちについてばかり考えていた。自分がそれに値する人間じゃないのに愛されるのは、ものすごい負担なんじゃないか?勝手に愛されていたとしても、自分とは無関係だとは思えないだろう。彼が自分の幻影を愛していたとしても、その元には自分がいるわけで、もしも彼が自分に幻滅して愛が失われてしまったら、その責任は自分にあるとも言える……そう思いながら、『草の花』を読んでいた。

 それに、愛についての話だったら、私は「遠方のパトス」という短編の方が好きだった。主人公は、出征前の友人の自殺、戦地での仲間の死を経験したことで、かつて心を寄せていた令嬢からの「アメリカへ留学に行くので、その前に会ってほしい」という手紙をやり過ごしてしまう。

  「もし愛していることでせめて一杯の水でもあの時手にはいったのなら。それならば愛しもしよう。愛からは一杯の水も生まれて来ない。愛することは浪費だ。自分のものを与えることだ。僕たちにはもう与えるものなんかありはしない」


 「しかしね、何を求めて愛したり愛されたりするんです。自我と自我とが衝突して、最後には厭な思いをするだけじゃあ、ありませんか。遠くにいれば、恋人はただ美しい。いつまでも自分の願っている通りでいてくれる。相手がそれを知らないのにこっちは心から愛している、何も求めないで、しずかにね。そういうパトスが僕には大事だったんですよ。そういうパトスで僕は自分を育てて来たんです」


こういうネガティブな言葉の方が私の好みには合う。そういう話をできたはずなのに、拙い言葉で筋道のない考えをぼそぼそと話すのは気が引けて、結局ぼんやりだんまりしているしかなかった。

その後もチバユーによる圧巻のパフォーマンスは続く。以下、発言集

「わりとディープな内容の漫画が好きって言うから、ガロとかつげ義春が好きなのかと思った。そっちには興味ないの?」「今度Kindleを買おうかなって思うんだけど、使ってたことある?」「LIMI feuってブランドは知ってる?ヨウジヤマモトの娘がやってる」

もしかしたら、知識量でマウントを取って、相手の自尊心を削っていくのが彼の戦法で、私はうってつけのカモだったのかもしれない。

それでも、「知らない」という言葉を使うたびに、自分があまりにも無知でつまらない人間だということが心底思い知らされた。私は21年間、自分の興味のあるごく限られた範囲内で満足そうに、つまらなそうに生きているだけでしかなかった。でも、イッセイミヤケくらいは知ってるし!父親のパンツのウエストゴムのところに名前があったから!

 もう1つ落ち込む要因となったのは、文面での私と、本体での私の落差(そしてそれに感じるであろう幻滅のこと)だ。会う前に、好きなフランスの作家がマラルメとフランシスジャムだと言われたとき、「詩かよ!」と思いつつも、デュラスとウエルベックで応戦できたし(別にそんなに読んでいるわけではないことを白状し、仏文科の方に土下座します)、堀辰雄の『風立ちぬ』についても、日文科らしく一席ぶつことができた。今思えば、文面でのやりとりでの、そういう馬鹿みたいな知的な人間アピールで、チバユーの私に対する期待のハードルをガンガン上げてしまったのがそもそもいけなかった。

そして、潮が引くように私への関心が薄くなっていく様子を肌で感じないといけないのが何よりもキツかった。ああ、応えられなかったんだなと、嘘をついてそれが相手にバレてしまったときに似た罪悪感に打ちのめされたまま、私は中目黒を去ったのだった。

 その後、しばしの鬱状態から立ち直った私は、次にチバユーに会って、ちゃんとした顔面でちゃんとした話をするために、2つのことに取りかかった。勘のいい人はもう気づいていることでしょう。

そう、メルカリでBLUE LABELの服を買うこと。そして、福永武彦の小説を読むこと。

まずは、BLUE LABELについて。食事中、チバユーが私の着てるワンピースを褒めたあとに、「BLUE LABELの服とか似合いそうだね」と言ったのを、私ははっきりと覚えていた。それは、自己嫌悪で沈みまくっていた私に投げ掛けられた藁だった。その言葉にすがった私は、BLUE LABELの服を着こなせれば、もう一度彼のなかの、期待していた私に近づけるんじゃないかという気がした。

 BLUE LABELは、数年前までBURBERRYとライセンス契約を結んでいて、プレッピースタイルの品のある服が多くて、特にチェックのスカートなんか物凄くかわいい。さっそくメルカリをダウンロードした私は、BLUE LABELの服を買い漁るようになり、いつか着れたらなと毎日BURBERRYの服をうっとりして眺めていた。

 福永武彦の小説を読むことについても、事態が何も進んでないなかで、目標に向かってとりあえず何かをやった気になれるし、直接会うよりも、その人の好きな本を読んだり曲を聴いたりすることの方が、その人のより内面的な部分が分かって、精神的な距離が縮まる気がして好きだった。(キ・モ・す・ぎ・る!まさに遠方のパトス!)

 そして、既に読んだ本を含め、それなりの作品を網羅した私は、最後に作者最大の長編である『死の島』に挑むことにした。『死の島』は、作者曰く「現代に於ける愛の可能性、或いは不可能性という主題を、原爆の被害者である一人の女性をめぐる数人の人物との関係に於て捉え」た小説で、主人公が広島へ向かい、広島に着くまでの一日の物語だ。

出版社に務め、小説家になることを夢見ている相馬鼎(かなえ)は、広島で被爆した過去を持つミステリアスな画家、萌木素子(もえぎもとこ)と、彼女と同居する、育ちが良くて可愛らしい様子の相見綾子(あいみあやこ)という、二人の全く異なるタイプの女性に惹かれていく。そして相馬は、彼女たちと交流を深めつつも、それぞれをモデルにした小説を書くことで、その心を理解しようとする。(これは、私がチバユーについて理解するために彼の好きな福永武彦の小説を読むことと、どこかパラレルになっていないだろうか?) そんななか、ある電報が届き、相馬は広島へ向かうことになる……というのがざっくりとしたあらすじで、電報の内容についても序盤ですぐに分かるし、なんなら文庫版のあらすじにも書いてある。(気になる人は、『死の島』でググってみること!)

 ページの端から端まで活字をぎゅうぎゅうに敷き詰めた、今まで見たことのないような版組みの500ページの文庫本×2冊というボリュームと、しかも“ある事件”の起きた日を起点にしながらの、100日後に死ぬワニも真っ青になるほどバラバラの時系列と6つのパートの入り乱れによって物語が進行していくという複雑な構成は、福永武彦が好きな私でも、正直読むのがつらくはあった。

 それに、相馬の「彼女は自分に気があるはずだ!」という自惚れと「俺は彼女たちのどちらを愛しているのだろうか?」という煮え切らなさと、とりあえずどちらにもアプローチをしてみるという小賢しさといったら!読んでいるときの共感性羞恥で危うく死ぬところだった。それでも、幸か不幸か、チバユーとの連絡が間遠になり、次の予定も立っていないのでなんとなくダラダラと読み続けていたし、やっぱりどうなってしまうのか続きが気になって最後は徹夜して読み切った。

 そして、ラストの衝撃を上回る場面に出会ったのは、メルカリで、BLUE の春物のワンピースを見ていても、あまり可愛いと思えなくなっていた頃だった。

 お正月の場面。相馬からクリスマスプレゼントとしてもらったカーディガンを喜んで着ている綾子に対して、そしてそれに満更でもない相馬に対して、素子がこう言い放つ。


 「自分の身体に合った服装を見つけるのは自分の眼よ。それが自分を大事にすることよ。あなたが自分というものを大事にしなければ、結局どんなものでもいいことになるじゃないの。(中略)自分の個性、自分の意志、自分の好み、それが綾ちゃんにとって一番大事なものよ」


 今引用してみるとどうってことない文だけど、自分に合う服を鎧として纏い、自分を確立し、自分を守ることで生きてきた彼女の言葉に、自分の状況が見透かされているように感じた。だいたいの商品に使われているチェックが見ているうちに少しだけ、もさく感じてしまうようになったこと。スカートの形がミニでも膝丈でもロング丈でもフレア寄りで、私が着るとどうも「どすこい!」感があったこと。クリスマスのイルミネーションデートで気合いを入れた彼女が着てくるような、白いファーつきのダッフルコートだって、私には可愛いすぎる気がするうえに、不注意で口紅と泥をつけてしまったこと。BLUE LABELの服に対して私が感じていた居心地の悪さをピタリと言い当てられ、一瞬で解き放たれたような気がした。

この言葉を反芻するうちに、彼のなかの理想の私の像に合わせなくてもいいこと、そして、そんなことをしても、私が望むように彼の期待をよみがえらせることはできないことが徐々に分かってきた。

 結局、あの夜にはもう全部は終わっていて、それを受け入れるための作業を今までの私はしていたのだと思う。

 だんだん気温が上がってきて、もう衣替えの時期が来る。たぶん、チバユーとは会うことのないままだ。春と夏の服は私が去年気に入って買った服しかないから、大丈夫。去年よりも、アンテナを張って情報収集をするようになったし、自分のペースで少しずつ変化できている。やってくる春と私の復活を祝う記念に、まずはメルカリでBLUE LABELの服を売ろうか。

(引用は、新潮社『福永武彦全集』第3巻、第11巻より)