教授の趣味でSM理論について勉強させられた結果

谷崎潤一郎の『痴人の愛』を読んで、映画を観るという授業を受けたことがある。

痴人の愛』を読んだのはこれが初めてだったけど、こんなに面白い話だとは思わなかった。とにかくナオミが腹立つ!そして腹を立てれば立てるほど、譲治と一緒にこっちまで面白いくらいナオミに翻弄された。しかも、ナオミの手が分かっていて、次こそは引っ掛かるまい……としているのに、最終的にコロッとやられちゃう展開の繰り返しではあるんだけど、それまでの焦らしがすごくて、ジェットコースターに乗せられている感じがした。谷崎がこんなにストリーテラーだったのを知らなかったなんて、日文科失格だと痛感しました。

映画の方は増村保造監督のもので、『痴人の愛』は3回映画化されているらしいけれど、この作品は唯一、譲治がオッサンのやつだ。そのオッサンがなぜか半裸でいるシーンが多くて、気持ち悪い。(多分それもわざと)スカッとするアクションシーン?も多くて、全体的にコメディタッチで、(なんと、浜田という大学生の脇役として、若い頃の田村正和が出演していた!びっくり!)一緒に受けていた友達と「痴人の愛で一番クズなのは誰か?」「譲治と結婚して一生をともにできるか?」というくだらない議論で毎回盛り上がったのは本当にいい思い出です。

 そして、授業では、『痴人の愛』を読み解くための背景として、恋愛結婚とお見合い結婚の変遷、性の二重規範ピグマリオン・コンプレックス、そして、サドマゾ理論についても勉強することになった。

特に、サドマゾ理論についての講義は気合いが入っていて、フロイトのサドマゾカップル論とドゥルーズのサドマゾ非カップル論の概要が教授お手製の5枚にもおよぶレジュメに詳しくまとめられていた。レジュメは素人が読んでも相当分かりやすくまとまっていて、「ありがとう教授……!この後の人生で役に立つか分からないけど!」と私も興奮、もとい感動した。レジュメにはご丁寧に「試しに自分がサドとマゾのどちらの傾向にあるのか、この機会に考えてみるのがよいだろう」という言葉まで書かれていた。教授よ、これは確信犯だな。

当然、このレジュメに書かれている心理は、一般的な意味で使われているカジュアルなSとMとは、だいぶ違う。このことは、性描写のある本が単純にエロい本であるかというと、そうでもないということに似ているような気がする。じゃあ、官能小説のSMプレイ描写よりも、サドマゾの概念について遥かにつかんでいる気がする小説は、どんな小説か?とりあえず、思いついた2冊を紹介したい。

小川洋子 『ホテル・アイリス』『博士の愛した数式』がメジャーな小川洋子作品だとしたら、これは小川洋子作品のなかでも、マイナー中のマイナーだとも言える。正直、同じ作者が書いたとは思えないし、本屋で2冊が隣り合って売られていたら悪趣味すぎてゲラゲラ笑ってしまう。

ホテル従業員の娘である17歳のマリが、ホテルで初老の男性に出会ったとき、まず彼女の印象に残ったのは、男の声だった。暴力や権力を使うことなく、それでいて有無を言わさず命令に従わせるような声。そして後にマリは、この声に直接導かれることになる。周りのものすべてが鄙びたように感じるリゾート地と、歪んだ太陽とうだるような暑さ。そして、下品で意地の悪い母親や手伝いのおばさん。うんざりするような日常のなかには、男と少女の居場所がないように感じられる。二人が町でデートをするシーンは特に痛々しい。小川洋子の静謐な文章で書かれるSM描写は、より醜く、より美しい。


菊地成孔 『あたしを溺れさせて。そして溺れ死ぬあたしを見ていて』はああああもう題名からしてアウト!作者の名前の文字面だけでもアウト!っていうのは冗談で、

正直、マニアックだし、めちゃくちゃ苦しそうだなという印象。「タンザニアと韓国と日本のトリプル」の僕は、「水の中で女の子が溺れて苦しんでいる様子を観る」と興奮する“溺死フェチ”で、溺れ苦しむ女の子を祈るような気持ちで見つめて、苦しいくらい感情移入して興奮している。(フロイト的なサドマゾですね)

今読み返してみたら、記憶以上に酷くて、本当にこれを紹介していいのだろうか?と鬱になるレベル。まず、開始3行で女の子がバスタブに沈められていて、その後はこれでもかってくらいその苦しさが客観的に説明されている。

蓮見重彦の『伯爵夫人』を念頭にして書かれたというだけあって、読むに堪えないようなハードな性描写が続いて、自然と顔をしかめてしまう。でも、本自体に罪はないし、一度読んでしまった以上、私の記憶からなかったことにはできない。

ちなみに、この本は「ヴァイナル文學選書」の第一弾で、新宿でしか手に入らない。形も特殊で、綴じられていない紙の束がそのまんまビニールに入って売られていて、なんだか新鮮な感じがする。

そして、新宿のディスクユニオンでこれを買った帰りに、「何買ったんですか?」とナンパに声を掛けられたけど、いろんな意味で怖くてダッシュで逃げた、という思い出がある。

2冊とも、「耽美……」ってうっとりするというよりは、むしろ思わず読むのをやめたくなるくらいのギリギリの不快さが続く。


以前、セックスと自分の変態性を開示する行為って、隣接はしているけど、実は全く違うものなんじゃないかっていう話を友達にしたことがあって(そして、やっぱりドン引きされて)、さらにそこから突き詰めていくと、

「変態」っていうのは、そう罵って興奮している相手の頭のなかの貧しい「変態」観を忠実になぞるプレイをするんじゃなくて、むしろ相手が全くそれに興奮できない理解不能な領域からくる行動なのではないだろうか?

ふう……教授のサドマゾ普及の熱意に乗せられて、ついにこんな所まで来てしまった……あのレジュメから、これだけ真面目に考えた学生は他にはいないはずです!!教授、ぜひ、私に「100点」をください!!!

【付記】SM理論が「教授の趣味」だというのは、あくまでも冗談で、実際に授業で『痴人の愛』を読むのに他のトピックと同等に役に立ちました。また、以前読んだ、倉橋由美子の『聖少女』の読解にSM理論を援用し、マゾヒストの快楽が家父長制とエディプス・コンプレックスを解体する可能性を指摘した論文は、とても面白かったです。サドマゾに幼稚な反応を示す私の文章に対して、教授とサドマゾに対する侮辱だと不快に思われた方は申し訳ありませんでした。

メモリー・オブ・バーバリー

白いダッフルコート(アンゴラのファーつき)、黒いPコート、赤チェックのミニスカート、グレーチェックの膝丈スカート、茶色いスカート。

以上5点。どれも、BURBERRY BLUE LABEL、もしくはBLUE LABEL CRESTBRIDGE の服だ。使った金額の合計は、たぶん3万円を越えていて、よくもまあ、と自分でも呆れる。4ヶ月前には名前さえ知らなかったブランドの服をメルカリで大量購入するようになったのは、それが「千葉雄大」に教わったものだったからだ。

千葉雄大」というのは仮の名前で、当然、本名は別にある。

とりあえず、雰囲気や話す感じが似ていたから千葉雄大。「キャー恥ずかしい!」っていう惚気でこんなことを書いてるわけじゃなくて、むしろ自分の正気を疑うという点においては、非常に恥ずかしがっている。殺してくれ……みなさんは、「これを“彼”という代名詞を連発してエモい感じの文章にするのだけは、何としてでも避けたかったのだ……」という私の遺志をどうか汲み取ってください。

 さて、定期圏内だった中目黒に初めて降り立った私は、チバユー(仮)に初めましての挨拶をしたあとに、「オシャレ」としか言いようのないカフェ&バーに連れて行かれた。

「何のビールが好きなの?」という質問に「アサヒスーパードライかな」と答えたときから、すでに私の敗北は決まっていたのかもしれない。とりあえず呑めれば缶ビールの種類なんて気にしないけど、プレミアム・モルツはたしかに美味しいよなくらいの私に、チバユーは聞いたことのないような名前の外国のビールの話をし始め、ウイスキーだったら何が好きかと尋ねてきた。ウイスキーなんてほとんど呑まないし、その違いの分かるはずもない私は、「山崎、オイシイデスヨネ」と一回呑んだことのあるだけの高級酒の名前を出して、ひとまず無難に難を逃れた。それでも、私の緊張はこの時点でアウトバーンを走り始めた。

 化粧ポーチを家に忘れたせいで、ドラッグストアのテスターだけで急いで顔面を作り上げたことは、この際どうでもいい。それを気後れに思う余裕すら、このときの私にはなかった。ビールも手伝って、完全に使い物にならなくなった私は、頼んだ生ハムに添えられていた棒(プレッツェル?)ばっかり食べていたし、壁際にあった鹿の置物を「そういえば、合宿で行った奥多摩の旅館にもいたなあ」と、チバユーのご尊顔よりも多く見ていた。

 そして私の奇行とは真逆に、チバユーの話っぷりは神がかっていた。吉行淳之介の死後に妻と愛人たちが競って3冊の思い出本を出した話、etc…… とにかくよく喋るし、どの話もこっちの興味を惹くような面白いもので、チバユーが異常に頭が良くてちゃんと自分の趣味(スタイル)のある人なのが1時間話しただけでも分かった。しかし我々は一体、中目黒で何の話をしているのだ……?

 そんなチバユーが好きな本は、意外にも福永武彦の『草の花』だった。福永武彦というのは、池澤夏樹の父親で、小説家であると同時に、学習院大学の仏文科の教授を務めていた人だ。愛や孤独、死をテーマにした作品が多くて、『草の花』も勿論その系統でけっこう観念的な話だったりするけど、私が高校生のときに読んでいたら間違いなくハマっていたと思う。

 『草の花』の前半は、主人公の汐見が旧制高校時代、弓道部の後輩である藤木という男の子を愛するようになり、その気持ちを打ち明ける話だ。(実はそんな単純な話じゃなくて、実はこの話が、藤木との、そして彼の妹との愛に敗れた末に結核を患って死へと向かう汐見が書いた手記だというのがポイントではあるんだけど!)

文章が美しいのはもちろん、愛することは自分の孤独を賭けることで、たとえ愛されることがなくても、自分が藤木のことを愛してさえいればいいと考える汐見の思想に読んでいるうちに共鳴していき、自分が深いところまでたどり着いた気になる。反面、私は藤木の気持ちについてばかり考えていた。自分がそれに値する人間じゃないのに愛されるのは、ものすごい負担なんじゃないか?勝手に愛されていたとしても、自分とは無関係だとは思えないだろう。彼が自分の幻影を愛していたとしても、その元には自分がいるわけで、もしも彼が自分に幻滅して愛が失われてしまったら、その責任は自分にあるとも言える……そう思いながら、『草の花』を読んでいた。

 それに、愛についての話だったら、私は「遠方のパトス」という短編の方が好きだった。主人公は、出征前の友人の自殺、戦地での仲間の死を経験したことで、かつて心を寄せていた令嬢からの「アメリカへ留学に行くので、その前に会ってほしい」という手紙をやり過ごしてしまう。

  「もし愛していることでせめて一杯の水でもあの時手にはいったのなら。それならば愛しもしよう。愛からは一杯の水も生まれて来ない。愛することは浪費だ。自分のものを与えることだ。僕たちにはもう与えるものなんかありはしない」


 「しかしね、何を求めて愛したり愛されたりするんです。自我と自我とが衝突して、最後には厭な思いをするだけじゃあ、ありませんか。遠くにいれば、恋人はただ美しい。いつまでも自分の願っている通りでいてくれる。相手がそれを知らないのにこっちは心から愛している、何も求めないで、しずかにね。そういうパトスが僕には大事だったんですよ。そういうパトスで僕は自分を育てて来たんです」


こういうネガティブな言葉の方が私の好みには合う。そういう話をできたはずなのに、拙い言葉で筋道のない考えをぼそぼそと話すのは気が引けて、結局ぼんやりだんまりしているしかなかった。

その後もチバユーによる圧巻のパフォーマンスは続く。以下、発言集

「わりとディープな内容の漫画が好きって言うから、ガロとかつげ義春が好きなのかと思った。そっちには興味ないの?」「今度Kindleを買おうかなって思うんだけど、使ってたことある?」「LIMI feuってブランドは知ってる?ヨウジヤマモトの娘がやってる」

もしかしたら、知識量でマウントを取って、相手の自尊心を削っていくのが彼の戦法で、私はうってつけのカモだったのかもしれない。

それでも、「知らない」という言葉を使うたびに、自分があまりにも無知でつまらない人間だということが心底思い知らされた。私は21年間、自分の興味のあるごく限られた範囲内で満足そうに、つまらなそうに生きているだけでしかなかった。でも、イッセイミヤケくらいは知ってるし!父親のパンツのウエストゴムのところに名前があったから!

 もう1つ落ち込む要因となったのは、文面での私と、本体での私の落差(そしてそれに感じるであろう幻滅のこと)だ。会う前に、好きなフランスの作家がマラルメとフランシスジャムだと言われたとき、「詩かよ!」と思いつつも、デュラスとウエルベックで応戦できたし(別にそんなに読んでいるわけではないことを白状し、仏文科の方に土下座します)、堀辰雄の『風立ちぬ』についても、日文科らしく一席ぶつことができた。今思えば、文面でのやりとりでの、そういう馬鹿みたいな知的な人間アピールで、チバユーの私に対する期待のハードルをガンガン上げてしまったのがそもそもいけなかった。

そして、潮が引くように私への関心が薄くなっていく様子を肌で感じないといけないのが何よりもキツかった。ああ、応えられなかったんだなと、嘘をついてそれが相手にバレてしまったときに似た罪悪感に打ちのめされたまま、私は中目黒を去ったのだった。

 その後、しばしの鬱状態から立ち直った私は、次にチバユーに会って、ちゃんとした顔面でちゃんとした話をするために、2つのことに取りかかった。勘のいい人はもう気づいていることでしょう。

そう、メルカリでBLUE LABELの服を買うこと。そして、福永武彦の小説を読むこと。

まずは、BLUE LABELについて。食事中、チバユーが私の着てるワンピースを褒めたあとに、「BLUE LABELの服とか似合いそうだね」と言ったのを、私ははっきりと覚えていた。それは、自己嫌悪で沈みまくっていた私に投げ掛けられた藁だった。その言葉にすがった私は、BLUE LABELの服を着こなせれば、もう一度彼のなかの、期待していた私に近づけるんじゃないかという気がした。

 BLUE LABELは、数年前までBURBERRYとライセンス契約を結んでいて、プレッピースタイルの品のある服が多くて、特にチェックのスカートなんか物凄くかわいい。さっそくメルカリをダウンロードした私は、BLUE LABELの服を買い漁るようになり、いつか着れたらなと毎日BURBERRYの服をうっとりして眺めていた。

 福永武彦の小説を読むことについても、事態が何も進んでないなかで、目標に向かってとりあえず何かをやった気になれるし、直接会うよりも、その人の好きな本を読んだり曲を聴いたりすることの方が、その人のより内面的な部分が分かって、精神的な距離が縮まる気がして好きだった。(キ・モ・す・ぎ・る!まさに遠方のパトス!)

 そして、既に読んだ本を含め、それなりの作品を網羅した私は、最後に作者最大の長編である『死の島』に挑むことにした。『死の島』は、作者曰く「現代に於ける愛の可能性、或いは不可能性という主題を、原爆の被害者である一人の女性をめぐる数人の人物との関係に於て捉え」た小説で、主人公が広島へ向かい、広島に着くまでの一日の物語だ。

出版社に務め、小説家になることを夢見ている相馬鼎(かなえ)は、広島で被爆した過去を持つミステリアスな画家、萌木素子(もえぎもとこ)と、彼女と同居する、育ちが良くて可愛らしい様子の相見綾子(あいみあやこ)という、二人の全く異なるタイプの女性に惹かれていく。そして相馬は、彼女たちと交流を深めつつも、それぞれをモデルにした小説を書くことで、その心を理解しようとする。(これは、私がチバユーについて理解するために彼の好きな福永武彦の小説を読むことと、どこかパラレルになっていないだろうか?) そんななか、ある電報が届き、相馬は広島へ向かうことになる……というのがざっくりとしたあらすじで、電報の内容についても序盤ですぐに分かるし、なんなら文庫版のあらすじにも書いてある。(気になる人は、『死の島』でググってみること!)

 ページの端から端まで活字をぎゅうぎゅうに敷き詰めた、今まで見たことのないような版組みの500ページの文庫本×2冊というボリュームと、しかも“ある事件”の起きた日を起点にしながらの、100日後に死ぬワニも真っ青になるほどバラバラの時系列と6つのパートの入り乱れによって物語が進行していくという複雑な構成は、福永武彦が好きな私でも、正直読むのがつらくはあった。

 それに、相馬の「彼女は自分に気があるはずだ!」という自惚れと「俺は彼女たちのどちらを愛しているのだろうか?」という煮え切らなさと、とりあえずどちらにもアプローチをしてみるという小賢しさといったら!読んでいるときの共感性羞恥で危うく死ぬところだった。それでも、幸か不幸か、チバユーとの連絡が間遠になり、次の予定も立っていないのでなんとなくダラダラと読み続けていたし、やっぱりどうなってしまうのか続きが気になって最後は徹夜して読み切った。

 そして、ラストの衝撃を上回る場面に出会ったのは、メルカリで、BLUE の春物のワンピースを見ていても、あまり可愛いと思えなくなっていた頃だった。

 お正月の場面。相馬からクリスマスプレゼントとしてもらったカーディガンを喜んで着ている綾子に対して、そしてそれに満更でもない相馬に対して、素子がこう言い放つ。


 「自分の身体に合った服装を見つけるのは自分の眼よ。それが自分を大事にすることよ。あなたが自分というものを大事にしなければ、結局どんなものでもいいことになるじゃないの。(中略)自分の個性、自分の意志、自分の好み、それが綾ちゃんにとって一番大事なものよ」


 今引用してみるとどうってことない文だけど、自分に合う服を鎧として纏い、自分を確立し、自分を守ることで生きてきた彼女の言葉に、自分の状況が見透かされているように感じた。だいたいの商品に使われているチェックが見ているうちに少しだけ、もさく感じてしまうようになったこと。スカートの形がミニでも膝丈でもロング丈でもフレア寄りで、私が着るとどうも「どすこい!」感があったこと。クリスマスのイルミネーションデートで気合いを入れた彼女が着てくるような、白いファーつきのダッフルコートだって、私には可愛いすぎる気がするうえに、不注意で口紅と泥をつけてしまったこと。BLUE LABELの服に対して私が感じていた居心地の悪さをピタリと言い当てられ、一瞬で解き放たれたような気がした。

この言葉を反芻するうちに、彼のなかの理想の私の像に合わせなくてもいいこと、そして、そんなことをしても、私が望むように彼の期待をよみがえらせることはできないことが徐々に分かってきた。

 結局、あの夜にはもう全部は終わっていて、それを受け入れるための作業を今までの私はしていたのだと思う。

 だんだん気温が上がってきて、もう衣替えの時期が来る。たぶん、チバユーとは会うことのないままだ。春と夏の服は私が去年気に入って買った服しかないから、大丈夫。去年よりも、アンテナを張って情報収集をするようになったし、自分のペースで少しずつ変化できている。やってくる春と私の復活を祝う記念に、まずはメルカリでBLUE LABELの服を売ろうか。

(引用は、新潮社『福永武彦全集』第3巻、第11巻より)

あなたがいつか、美しい言葉に復讐される前に

「やあハニー、元気にやってるかい?あれからnoteの更新がないようだけど、一体キミは何をやってるんだい?そんなにボーイフレンドのケツを追い回すのに忙しいのか、全く。大晦日に全裸で興奮しながら(注:お風呂で)記事を書いていたときのキミは最高にクールだったよ。でもあの記事にしても、開始10行くらいまではいい感じだったけどあとはゴミだね!スパムの方がまだマシだ!ハッハッハ」

 こんな風に、クリスチャン・ベールみたいな人が世界まる見え!の映像に出てくるアメリカ人男性の吹き替えの声で快活に私のことを罵ってくる。

 もちろん、脳内で。一応申し添えて置くと、ケツを追わないといけないボーイフレンドはいないし、クリスチャン・ベールに罵られることに快感を感じるようなドM精神は持ち合わせていない。そこはご心配?なく!

 でも正直、毎回毎回「久しぶりの更新!」と宣伝をするのもどうかという感じだし、この期間、Twitterで頻繁に長文を投稿する暇があるなら、noteを更新すればよかったはずだとも我ながら思う。それなのに、それができなかったのは、そしてnote自体をやめてしまおうと何度も考えたのは、バカなことに前回の記事で自分が書いた言葉にしこたまダメージを受けたからだ。

 前回の記事、「“サブカルクソ女”と呼ばれて」を読んでくださった方には分かると思うけれど、歯にものが挟まりまくった状態でメンヘラとサブカルについて書いた結果、なんともグタグダな出来上がりとなってしまった。このことについてもう一度考えて、文章を読み直して、結局あの1000文字が何を叫んでいるのかを自問自答したところ、

「私はメンヘラとサブカルを見下しているし、そういう人たちと一緒くたにされることに我慢ならない」というヘイトだった。

 もっと良心的な言い方もあるし、そういうつもりで書いたわけじゃなかったけれど、つまりはそういうことだった。記事を書いた翌日にはそのことに気づいた私は自己嫌悪でただでさえ血色の悪い顔を青ざめさせ、またしばらくnoteを書けなくなってしまった。

 言葉は、その人の言おうとしていること以上に、その人自身も気づいていない彼/彼女のありようをこちらに伝えることがある。今回のことでその恐ろしさをダイレクトに思い知った。

 ちょうどこの時期に読んで印象に残っているのが小説家金井美恵子の『目白雑録5 小さいもの、大きいこと』という本だ。この本は、2011年の震災が起きた後の朝日新聞の記事について、その時期に注目を集めた人物、政治家、作家、学者、ジャーナリスト詩人の言葉を取り上げて徹底的に批評している。一見、至極まともで読むと感動でうっとりするような言葉の持つ違和感と危険性が彼女によって次々と明らかになる。私も頭の悪いうっとり系の単純な読者のうちの一人なので、知性があるとこんなにも見える世界が違うのかとびっくりする。(これまた単純な読者なので)アメリカのインディアン史から小津安次郎の映画にいたるまでの幅広い知識、言葉の裏を読み取る精度の高さ、他人の言葉をあくまでも優雅にくさす態度。この人の手にかかったらどんな人物の発言もひとたまりもないでしょう……

 この本では(金井美恵子氏のいじわるさだけではなく)、言葉を読み言葉を書き、言葉と向き合うことを職業としている「小説家」の本領が発揮されている。安直に言葉を発する前に、自分がその言葉を発する背景について問いを投げかけること。言葉を扱う者がせめて自分の言葉に対して誠実でいるためにはそれしかないのかもしれない。

 今の状況を震災時のことと重ねる人も多く、すでに美談もちらほらと語られ始めていて、9年前と同じように誰かが何か耳ざわりのいいことを言い出すときも近いかもしれない。そんなときに一度立ち止まれたらいいと思う。あなたが美しい言葉に復讐される前に。

「うーん、やっぱり前半と後半の繋ぎ方がダメだね~でも前回よりは一応まとまりがあるし、キミのチャーミングさも伝わってくるしこの辺でよしとしようじゃないか!」と脳内クリスチャン・ベールがウインクしてくれているので、まあいいかな。

“サブカルクソ女”と呼ばれて

12月某日の夜、新宿三丁目駅へと向かう地下通路で私は、男に対して愛の告白を試みていた。

「どうしよう……好きかもしれない」

そう言ったそばから、言葉には照れと自嘲と投げやりな調子が同居しはじめていた。さっき飲んだビールによる酔いがなければ、こんなことは口走らなかったはずなのに。男の歩くペースはそれでも変わらない。今度こそ躊躇いの色を消して男の背中を刺すように告げる。

「本当に好きなんだと思います、菊地成孔が」


菊地成孔……? あーあのやたら小難しいことを書いたりしてる人ねえ」

男は私の菊地成孔への“愛の告白”をバッサリ斬り捨てて、苦笑い混じりに次の言葉を言った。

「君さ、いかにも“サブカルクソ女”って感じだな」

「苦笑い」というのは、好意的な表現で実際はだいぶ小馬鹿にしたニュアンスが加味された笑いだった。おい、クソはどっちだ?

 ここで何か言い返せたらよかったものの、私は優しく思慮深くマイペースなので、相手の言葉を無下にはせずに、自分が“サブカルクソ女”と呼ばれたことに対して「やはりそう来たか!」という気持ちと「違う!そうじゃない!」というもやもやに意識が行ってしまった。さらに情けないことに、こういう場面では頭と口が回るのが相当遅い。私のヘラヘラ笑いによってその会話は終わって、私は帰途に着いたものの、その後きのうまでこの不快感を抱えたままになる。

(ここで使った“男”というワードには性愛的なニュアンスはなくて、イニシャルを使って固有性を持たせる必要すらないもっと路傍の人という意図です。菊地成孔という人は、wikiによると、ジャズ・ミュージシャンで文筆家で作曲家らしい。最近もっとも目立った活動としてはFINAL SPANK HAPPYというユニットとか。ネットで検索して「げえっ!おっさんじゃん!趣味悪っ!」って思った人の感覚は正しい。私がこの人の何に“参っている”のかは、また別の機会にでも書けたらいいなと思うけどそれは性癖の暴露に等しいものがある。とにかくあと15年私が早く生まれていたら本当にどうなっていたか分からない、とだけは言っておく)

 男が「サブカル」というワードを使ったのには、その日に私が紀伊国屋書店で買った本の中に『90年代サブカルの呪い』(ロマン優光 コア新書)が入っていたのを彼が知っているからというのはあるかもしれない。(だって新宿本店にしか売ってなかったんだもん!) 

 でもその本を買ったのは、前作に二階堂奥歯についての記述があり、彼女がサブカル文化を語る著者のなかでどういう文脈に位置付けられているのか気になったからであって、サブカルそのものへの興味はあまりない。

 ただ、「サブカル」とは一体何なのかを知ったうえで、私自身サブカルに連なる位置にいるのか、私の趣味というのは私が選んだものではなく、実はそうしたサブカルのムーブと繋がっているのではないかという疑問を解決したい、という気持ちもあった。(ちなみに、『90年代サブカルの呪い』の第三章タイトルは狙ったように「メンヘラ女子」)

 私が「サブカルクソ女」と言われたことに対して「やはりそう来たか!」と思ったり、サブカル研究関連の本を買い漁り始めたりしたのは、

そもそも私が好きになるものは、音楽と本のほとんどがことごとく「メンヘラが好き」扱いされるものだと最近気づいたからだった。私が好きな椎名林檎は一昔前まで「メンヘラ御用達アーティスト」として名高い存在だったし、私の好きな島本理生も「主人公がやたらメンヘラ」、「メンヘラのバイブル」とTwitter上で書かれているのを見たし、よりによって私の好きになった菊地成孔子の第二期SPANK HAPPYも楽曲のほとんどで今だったら確実に「メンヘラ」と言われるようなテーマを扱っている。ジーザス!なんてこった!

音楽とか本とかもどちらかと言えば、メジャーなもの、ポピュラーなもの、今流行っているものよりも、知る人ぞ知るちょっとだけニッチなものを好きになりやすい。

これだけ否定しているのに、サブカルが好きそうなものを好み、メンヘラが好きそうなものを好む私は、果たして“サブカルクソ女”なのか?(皆様もお気づきの通り、この記事では便宜上の都合で“メンヘラ”と“サブカル”をほぼ同列に扱って話を進めちゃっています……すみません)

メンヘラ(女子)やサブカル(女子)がやたらと馬鹿にされる一因として、周囲と差別化し個性的であろうとすればするほど、むしろ典型的なタイプに向かっているから、すでにパターン化された病み方やとんがり方に乗っかっているのに本人ではそれが個性的だと思っているから、というのがあると思う。

(メンヘラ男子やサブカル男子に対する扱いについては私の把握不足でありますが)

私にも「人とは違った自分でありたい」という邪悪な思いが全くないと言ったら嘘になるし、それによって私の個性はむしろ類型化から逃れられないのではないか?すごい皮肉!どうしたらいいんだろ

というのがここ最近の悩みで、ぼんやりしているうちに昨日いきなり解決しました。お騒がせしました。では、解決偏スタート

「人と違う自分でありたい」なんてそんなこと思わなくても、私は人とは違う。それは「ペンギンとカモメが違う」のと同じくらい特別さとはほど遠い意味でだ。

誇らしく思う日より不本意だなと苦しむ日の方が多い。

また、仮に私が精神的に不調なときがあったとしても、それは私個人の問題であって、他人に自分の個性を訴えかけるための精神的不調ではないはずだ。他人からそういう風に思われるのは悔しい。

そして、私が自己表現のアイテムとして何かを好きになったことはない。少なくとも私について私はそう思いたい。

私の趣味嗜好が限りなくサブカル的な何かやメンヘラ的な何かに近かったとしても、そのようなキャラづけを狙ったものではない。

椎名林檎だって、キリンジだって、菊地成孔だって、大人の遊び心というか、エロスというか、とにかくアダルティな感じに憧れて好きなのだし、島本理生は、彼女の書く文章と異性が好きなのだし、よく考えて言語化すれば自分のなかではちゃんとした理由も歴史もある“好き”だった。私は昨日ようやくそのことに気づいて、自分の“好き”に少しだけ自信が持てるようになった。

(この話では私は不本意にカテゴライズされるのが嫌だと主張しているだけで、カテゴリーの中に自分を置きたいという人の生き方を否定するつもりは全くない)

この“もやもや”をこうして言語化するまでに時間がかかったのは、私が普段自分の好きなものについて語るのに心理的抵抗を感じているからだと思う。

「本当に好きだったら理由が浮かばないはずだ」とうそぶいて判断を停止した結果、私の“好き”は他者によってミーハー的なものとして処理され、私という人間は“サブカルクソ女”という侮蔑をはらんだ浅薄なカテゴリーにやすやすと括られてしまった。

 自分がその人やその作品のどこが好きなのか、なぜ好きなのかは言語化できておいた方がいい。実際に言う言わないは別として、それが自分の“好き”を守るための武器になる。

 そして、相手の趣味嗜好に対して安易なカテゴライズを行って、その人のことを理解したようにならないこと。それは相手の“好き”を貶める暴力にもなるから。何よりもカテゴライズという行為は、やられた側からしてみれば死ぬほど不快だしキモい。フーッすっきりした!

要は、自分のために好きなものは好きなだけ語っておいた方がいい!という話でした。よいお年を~!